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「墓と住宅」

「墓と住宅」

(琉球新報 共に考える住宅デザインVol.139掲載)
「墓と住宅」

 先日、身内の命日ということで、墓参りにいってきた。でこぼこ道と急な坂道を登ってたどりつく高台の墓地は、以前は老若男女のあつまるビアガーデンであったという。この墓地周辺には、昔ながらの亀甲墓や、方位を意識した破風墓が道路の両脇に点在している。だが、駐車場の完備された私の先祖の眠っているこの新しい墓地は、ある開発会社により綺麗に整地され、専用トイレや手洗いまで設置されており、さながら分譲住宅地のように整備されている。
見晴らしがよく、そしてもちろん涼しげな墓地を見渡してみると、「○○家」や「○○家之墓」といったオーソドックスに家名の刻まれた墓石が垂直に建ち並んでいる。しかし、いろいろ見渡してみると、有名な琉歌や俳句、そして聖書の一節などが刻まれた墓石もみつけることができ、洒落たことをするものだと感心する。また生前の趣味であったのだろうか、ゴルフクラブやタバコの絵が墓石に彫りこまれているのもあり、墓の住人(?)の趣味が垣間見えて、なぜかニヤリとしてしまう。墓も住宅も似たようなものだと感じてしまった命日であった。
ところで、現在の住宅の形態は、ご存知の通り、3~4世帯家族の大きなものから1DKのアパートの一室というものまで多岐にわたる。同様に、墓の形態も、多くの親戚が集えるような大きなものから、お寺にあるロッカー式の小さなものまで多岐にわたる。特に沖縄の墓は、柱や壁はもちろん、屋根や扉まであるものが多く、そういう墓は、雨風を凌げるという意味では基本的に住宅と同じものだといっていい。ただ異なるのは、墓というのは死後にしか住むことができないということくらいだろうか。
我々人間は、一般(!)に、墓の住み心地を経験することができないため、現在の住宅の形態から想像して、墓のそれを決めているみたいだ。亀甲墓は子宮をモチーフにしているといわれるが、扉や前庭など住宅的な要素をもつ。しかし、よく考えてみると、墓の住み心地が経験できないのと同様に、住宅の住み心地もライフサイクルに合わせてその都度経験していくものともいえるのではないか。だから本当の住み心地は、実際に住んでみないと本当のところは分からない。ただ子供のころの経験や先輩方の住まい方を参考にはするが、やはり住む当事者としては近い将来をも想像しながら、常に新しい一日々々を経験していかなければならないのだ。そう考えると、退屈に感じていた毎日が新鮮に感じることができるのかもしれない。
見晴らしのいい高台の墓地の墓参りは、お天気に恵まれると、いつも気持ちのいいものであり、たまに、墓の隣の土地に住宅を建てて住んでみたいと思うことがある。あるいは墓を大きくして、その中に住めないだろうかと。しかし墓参りの終わった後には、いつも思いとどめるようにしている。墓に人が住んでしまえば、一時的にではあれ、そこは住宅となる。また住宅をそのまま墓にしてしまえば、両者の区別がなくなり、まさに永遠の住み家となるのかもしれない。しかし、昼夜の区別がなくなると生活リズムが崩れるのと同様に、生死の区別がなくなると人間ではなくなるかもしれないので、それはあまりお勧めできるものではない。(T)

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